肥料を使うと窒素を好むバクテリアの働きによって土が腐敗します。すると作物は病気になりやすくなります。また虫は腐敗物が好きなので、そういう土で育った作物を食べます。ですから、肥料を使った作物に虫が付くわけです。肥料が農薬を必要としていると言えます。
たんじゅん農法では、土を腐敗させる肥料を使いません。腐敗ではなく発酵させます。そのために畑に木や竹などのチップを入れたり、撒いたりします。そうなると虫は寄らず、葉も食べられなくなります。おまけに野菜はエグみがなく美味しくなってきます。

「発酵と腐敗」は、生き物が自然の中で生きる<仕組みや原理>そのものだと考えています。現在、これだけ科学が発達しても農も医も経済も社会もいまだにうまくいっていません。それどころか混迷を深めています。それを解くカギが「発酵と腐敗」にあると思います。私はその生きる<仕組みや原理>を明らかにするための実践として農をやっています。
生き物の命の正体は、エネルギーだと私は考えています。エネルギーは見えません。ところが今の学問では、目に見える物質しか扱いません。だから生き物のことがわからず、混乱するのは当然です。
命は人間が作ったものではありません。自然、宇宙が用意したものです。人間基準で見てもわかりません。
中世に天動説から地動説への転換がありました。それを言い換えると、人間基準から自然基準への転換でした。その結果、科学は発達したのです。

ところが命や人間に関することは、そうした転換からも取り残され、いまだに人間基準です。
現状の命や人間に関する問題の行き詰まりは、自然基準にするチャンスと考えています。今は第2の天動説から地動説への転換期。自然基準に立って、天から命と人間の科学を解く時代です。
本当のことは、単純、明快、矛盾なしで小学生でもわかる。それが本当の科学です。

地球の歴史を調べると、45億年前に地球が誕生し、それから7億年後、バクテリアという微生物が生まれました。次第に高度な生命体に進化して、4億年前に最も進化した微生物、キノコ菌ができたとされています。
それと同時期に、陸上植物が地球に生まれます。キノコ菌と陸上植物の発生は偶然ではありませんし、互いに助け合って生きていることがわかってきています。
また、地球の森林は何千年、何万年も育ち続けます。それは微生物層との共生の仕組みがあるからで、人間の作った肥料も農薬もいりません。その仕組みに人間が逆らうから肥料や農薬が必要になるのです。
自然の仕組み・働きを畑に応用し、コピペすれば、野菜が肥料も農薬もなしにできます。自然の仕組み・働きをコピぺした自然の法則に沿う農。それを「たんじゅん農法」と呼んでいます。
野菜を育てるのではなく、多様な微生物層を畑の土に飼う。これがたんじゅん農法における人間の仕事です。

地中の微生物は大きく分けて二種類あります。酸素を必要とする好気性菌(発酵菌)と酸素を必要としない嫌気性菌(腐敗菌)です。
表層近くには好気性菌が、下層には嫌気性菌が住んでいます。といっても、微生物の生態は変幻自在で、詳しいことは学者も十分わかっていないようです。
好気性の菌の代表はキノコ菌です。これは地球の進化の中で、最後に誕生した高度な微生物です。このキノコ菌を増やせれば、土中の微生物層が豊かになります。
キノコ菌が生きるには、酸素とエサが必要です。そのエサは木、竹、枯葉、枯草などの炭素資材です。それらを細かく砕いて、浅く土と混ぜます。浅く混ぜるのは、キノコ菌に空気が必要だからです。
そうすると森の中の土のようにフカフカになり、作物ができてきます。ようは作物が地球に誕生した過程と同じような環境を用意すればいいのです。
ただ地球の歴史の変遷を再現するだけでは表面的な技術にしかならず、それは科学ではありません。だから応用もできません。

いつでも誰でも、みんなが幸せに生きられる法則、仕組みや働きを見つけ、応用するのが科学です。
技術が発展しても野菜に虫が付く、体にガンができるというのであれば、それは科学とは言わないでしょう。
誰かが「正しい、間違いない」としていることでも、他の人にとっては、そうではないとすれば、どうしてそうなのか。根本的に考え直す。あくまでも普遍的な真理を見つけようとするのが、本来の科学です。
生き物の命の正体は、エネルギーだと先述しました。このエネルギーは、見えないけれども、無限にどこにでもあるものです。エネルギーからすべての物はできたし、いまもそれは動いています。すべての始まりはエネルギーです。
そのエネルギーを吸引して、生き物は生まれ、成長し、その働きが続く間は生きています。それが止まり、放出に代わると、成長が止まり、病気になり死んでいきます。
これらは仮説ですが、こうした見えない世界からエネルギーをモノに吸引する仕組みは、漬物づくりと同じだと思います。
白菜と塩を混ぜて、石で重しをするとエネルギーの詰まった漬物になります。二つの互いに性質の異なるモノを接して、圧をかけると宇宙はゼロに戻そうとして、モノにエネルギーが入ってきます。
「発酵」は、エネルギー・気をモノに吸引すること。その反対に放出することが「腐敗」です。

畑で作物が、森で木が育つためには、土がエネルギーの吸引・発酵状態にある必要があります。
土をその状態にしているのが、キノコ菌などの発酵菌です。発酵菌が引き込んでくれたエネルギーをもらって、植物は育っているのです。
逆に土が腐敗状態になれば、作物は病気になります。病気のところには、虫が寄ってきます。「ミミズのいる畑は土がいい」と思っている人は多いのですが、この原理から見れば、土が腐敗しているからミミズがそれを分解するために寄ってきているのです。ミミズや虫は腐敗が好きで、発酵の土になればいなくなります。

宇宙の法則は一つです。もちろん農以外にも適応されています。体も畑と同じで、胃腸の中には微生物がたくさん住んでいて、それが発酵状態であれば元気になります。腐敗状態であれば、病気になると考えられます。どんな病気もエネルギーを吸引できれば、よくなっていきます。体が元気なときは、体が気を吸引して、発酵状態にあるということです。気の吸引が止む(病む)と病気になります。
社会もエネルギーが入っていれば元気だし、抜けてくれば病気になります。発酵か腐敗か、エネルギーの吸引か放出か、宇宙の命の原理は一つ。とても簡単です。
でも、今の学問では、見えない世界を相手にしないので、こんな考えはありません。
これまでは、それでよかったかも知れませんが、難題が解決できないとなれば、改めて考え直してみる必要があるでしょう。過去の考えは仮説として、未来側から観る必要があります。それが科学です。
実は、元々みんな科学者の卵なのです。子どもたちは、よく「ナンデ? ナンデ?」と聞きますね。大人になると、その初心を忘れてしまって、目の前のことでわかったとします。もちろん実生活では、それも大事ですけれど、それではわからないことは解けません。
命とは何か。まだ明確な答え、誰しもわかるような答えを学問は出していません。たとえば、畑にまいた種が芽を出すと、「ナンデかな?」と聞いてみる。「雨が降ったから」。そうだったら「ナンデ雨が降ると芽が出るのだろう?」と問うてみる。すると、見えない命の世界がその奥で待っています。

物理を研究したかったのは、子どものころからわからないことがあったからです。
命とは何か。人間とは何か。小学生でもわかるように、本も先生もすっきりとは教えてくれませんでした。
そういうことに関心を持ったのは、子どもの頃の体験からでしょう。私は1941年に生まれ、4歳の時、空襲を体験しました。また、広島の原爆投下の日、投下15分前に広島駅に到着するはずの列車に乗っていましたが、どういうわけか難を避けられ、九死に一生を得ました。
そうした体験もあって、人間同士が考えの違いで、戦争をする実態を知りました。しかし、人間は違う考えをすることができる動物です。だとすれば、考えが違う限りは戦争は避けられない。
その一方で絶対に戦争はなくせると思っていました。なぜならそのほうが幸せだからです。
その矛盾を解くには哲学や宗教ではなく、物理をやるしかない。人間とは何か。命とは何かを物理で解明したいと考えるようになりました。
大学は理学部を選んだのですが、そこでわかったのは原子や分子を研究しても、命はわからないことでした。命は細胞の中にも試験管の中にもない。
命は見えないもの。それを引き込むことで生きているし、抜けていくと病気になる。これが物理です。
でも、物理は哲学や宗教と違い、仮説と実験による検証が不可欠です。そのために農をやろうと思ったのです。

初めは農業には興味はありませんでした。けれども「命とは何か」について考えていたら、「食べることと命の問題が根底で同時に成り立つ仕組み」が、自然界にはあるのではないかと気づきました。
そして、農業に限らず、医学、教育、経済、国際問題の混乱は、すべて同じ原因だと思うようになりました。人間の頭を自然基準にすることができれば、すべてがまともになる。そのため実験、実証をすることが科学であると考えたのです。
手始めに、まずは野菜をおいしくすることから始めました。農業が一番自然基準かどうかが見えやすく、早く実証できるからです。
ほとんどの農業は、人間の得た過去の知識を土に反映させています。自然農と言われているものも、人間の言っていることを先生にしています。

農業に限らず、政治も経済も医療も、人間を先生にしてきたのです。しかも誰かを先生にしているようで、実は自分を先生にしています。なぜなら誰かを先生にするのも自分です。自分の判断を基準にしているからです。これが争いの元なのです。
ところが自然を先生にすると「こういう農法がいい」とか「自給自足が本当」というのも、実は人間基準だと気付きます。
人は空気を自給できませんし、 心臓が動く仕組みを自分でつくっていません。自然の仕組み、働きがあっての「人間」「自分」だとわかります。
たんじゅん農法は、田畑が先生です。たんじゅん農法だと数ヶ月、長くて数年で実験結果が明らかになります。
命の仕組みに沿って、自然を先生にする農業をやっていけば、食料の争いも、そして考えの争いも同時に解決する道がある。さらに「人間」とは何か。「自分」とは何かの答えがあると思ったのです。

よく「肥料や農薬を使わないでどうしてできるのか」と尋ねられるのですが、実際に作物ができます。しかも美味い。人間だって、薬を使わないで、健康に生きていけます。
逆に自然農法で「何もしないのがいい」という考えもあります。それも人間を先生にして、実は自分の考えを信じています。
もしも、何もしないのが本当であれば、畑を作ることもできなくなります。それでは、人間がサルになるしかありません。
人間も自然の仕組み・働きに沿って生きるようになっています。それが宇宙の原理です。
人間には、自然の法則を知り、それに沿って応用し、みんながイキイキとする社会を作る役割があります。たんじゅん農法もそのための一つの仮説として、実践しています。
天才だけが田畑をやれるのでは、自然ではありません。誰でもどこでも、地球上の人間は生きていける。食べものを食べていける。それが当たり前です。その原理はあるけれど、知らないだけなのです。
それを見つける能力が人間にはあります。それを見出すのを邪魔しているのが「自分」基準、自分が先生という考えです。人間同士争い、虫や病気と戦争しているのも「自分」です。
実際、「自然が大事だ」という人も虫と戦っています。また「美味しいから野菜に虫がつくのだ」という人がいます。食べ比べてみると、虫の食う野菜はエグみがあって美味しくない。その原因は肥料にあります。人間が野菜をまずくし、虫を寄せ、虫と戦争をしている。野菜嫌いな子どもが多いのは、正常なのです。虫が食べない発酵型のピーマンなら、甘くて美味しく、子どもは喜んで食べます。
人間が自分で問題を起こして、「平和への努力」をしている。我を張るからガンバルのです。それはムダです。初めから、理に沿えば努力は要らないのです。それには自然を先生にすることです。

こうして触れる身体をたいていの人は、「自分だ」と思っています。でも、本当にそうでしょうか。身体は自分が作ったものではありません。自然の贈りものです。それを借りて動かしているだけです。
いわば身体は自動車。自分は運転手です。自分が自分の目や脳ですべてを判断している限り、他との争いが続くだけでなく、心の平穏も訪れない。かといって宗教の言うように「無になれ」はどうでしょうか。運転手は必要だからいるのです。ただ、真の役割を知らないので暴走をしているのです。

自分を先生にしたり、自分の考えを正しいとするのではなく、自然を先生にする。自分から物事を見るのではなく、向こう側から自分を見る。でも、これは哲学者や宗教家になることとは違います。本当はどうか、やってみて自然に答えをもらう。事実ありのままを観る。
畑をやっていてわかるのは、ダイコンは自分がつくったのか?ということです。確かに種を蒔いたのは自分です。けれども、根の白いところも、葉の緑も自分がそうしたのではない。そうなった。しかも肥料もやらないのにできた。そうなると、ふつうは「自分がつくった」と言うけれど、どこにも自分が作ったものはない。ダイコンができた。育った。ただ人間が少しお手伝いしただけです。
空気がなくなると3分くらいで人は死にます。それくらい大事な空気は誰がつくったのか。最も大事といわれる「命」は、誰が用意したのか。人間、自分は誰が用意したのか。
すべては宇宙の法則、自然の仕組みや働きがあって存在し、動いています。それを用意したのは、人間や自分ではありません。自分で作ったものは一物もありません。
人間という存在は知恵を持たされ、それを活かしあう役割として存在しているのではないでしょうか。
若い方には、本格的な農業でなくていいから、土に触れてみてはどうかと思います。いまは、人工的な環境が多くなって、土に触れる機会が減っています。しかし、土は生き物の原点です。
自然に触れるとわかってくることがあります。自然は雨が降ろうが、日照りになろうが生き続けています。どんな環境になろうが、地球はこれまで生き続けてやってきた。
土に触れ、生き物が生きて育っていく仕組みと働きが感じられれば、自分もその中で生かされていることが感じられ、生きる力が湧いてきます。そうすれば人間の知恵の役割が観えてくるかもしれません。
[文責・尹雄大 撮影・渡邉孝徳]